医療機関で、労働時間がきちんと守られ、有給休暇が適切に取得できている職場は、実際にはそれほど多くないのではないかと思います。特にパートやアルバイトのスタッフの場合、「自分にも有給休暇がある」ということ自体を知らないケースも少なくありません。雇う側である私たちが、働いてくれる人にそうした情報をわざわざ伝えるということは、正直なところほとんどないのが現実です。けれども、そうした“自分にとっては不利かもしれない情報”をあえて知らせることが、結果的にスタッフとの信頼関係を築き、気持ちよく長く働いてもらうことにつながるのではないかと感じています。
労働時間を守るという基本
医師という職業は、そもそも労働時間という概念が曖昧になりがちな仕事です。勤務医時代を振り返ると、オンコールで24時間365日気の休まる暇もなかったという先生も多いでしょう。しかし、開業医として管理する立場になると、同じ感覚でスタッフに接してしまうとギャップが生まれてしまいます。場合によっては、労働基準監督署への通報など、思わぬトラブルにつながることもあります。そうした法的な側面だけでなく、信頼関係の維持という意味でも、労働時間のルールはきちんと守るほうがよいと思います。
とはいえ、医療現場では予期せぬことが起こるものです。診療が延びたり、急患が入ったりして時間がずれ込むことは避けられません。だからこそ、残業が発生しうる場合は、最初からそれを想定して勤務時間を組んでおくほうが無難かと思います。時間外勤務が発生した場合には、当然ながら残業代を支払う必要があります。厳密には1分単位で計算すべきですが、そこまで徹底できている医療機関はごくわずかでしょう。現実的には、勤務が延びることが想定される場合には、あらかじめ余裕を持った時間設定にしておくのが最もトラブルの少ない方法です。
たとえば「9時から12時の診療時間」であれば、終わりを12時半に設定しておき、早く終われば早く帰ってもらう。これくらいの設計のほうが、現場の満足度も高いように思います。働く側からすると、終業時間が読めないというのは大きなストレスになります。特に家庭や子育てと両立しているスタッフであればなおさらです。12時に終わるはずが、実際は12時半になれば予定が組みにくくなり「時間がよめない職場でストレスだ」となりますし、逆に13時までの勤務で12時45分に終われば「少し早く終わってラッキー」と感じられるものです。こうした小さなことの積み重ねが、働く人の心理的負担を軽減し、職場の印象を左右します。
本当に些細なことですが、5〜10分の超過でも続けばスタッフの不満は積もります。仮にその分の賃金が支払われていないとなれば、なおさらです。「12時までの契約なのに12時10分まで働かされた」という小さな違和感が、職場への信頼を削ぐ原因になります。だからこそ、こうした“当たり前のこと”を整えるだけで、逆に信頼度は大きく上がるのです。
有給休暇を正しく扱う
有給休暇については、雇用から半年で付与され、その後1年ごとに日数が増えていきます。私は新しく付与されるタイミングで、A4一枚の説明書を渡すようにしています。「現在の有給休暇の日数」「残り日数」「使い方」などを明記したもので、いつでも自由に使っていいことを伝えます。シフトを確認するときにも、「有給も使ってくださいね」と一言添えるだけで、だいぶ心理的ハードルが下がるように思います。
さらに、給与明細の備考欄には「有給休暇の残り日数」を記載するようにしています。使った人には残数を明示し、こちらからも定期的にアナウンスする。これも一つの“使いやすさ”の演出です。経営者の立場としては、有給中も賃金を支払わなければならないため、確かに負担はあります。しかし、これは労働基準法で定められた当然の権利であり、避けて通れません。であれば、できるだけ気持ちよく使ってもらい、リフレッシュして長く勤めてもらう方が、結果的にはお互いにとって得だと感じます。
小さな「当たり前」が信頼を生む職場になる
実際のところ、ほとんどの医療機関――特にパートやアルバイトを雇っている職場――では、労働時間が厳格に守られているケースは多くありません。さらに言えば、有給休暇を正しく付与している職場もごくわずかです。ましてやパートスタッフに対して「有給休暇が取れますので、ぜひ使ってください」と積極的に勧めるような、いわば“親切な経営者”はほとんど存在しないのが現状だと思います。
一方で、もし先生がそうした基本的なルールを誠実に守り、スタッフに丁寧に対応されたとしたらどうでしょうか。実はそれだけで「この職場はすごく良い」と感じてもらえる可能性が高くなります。つまり、法律を守っているだけで、他の職場に対して圧倒的な信頼差を生み出すことができるのです。外から見てすぐにわかることではありませんが、内部のスタッフにとっての印象は確実に変わります。採用が爆発的に増えるということはなくても、いま働いている人たちの満足度が上がり、結果として離職やトラブルが減る。それだけでも経営上の効果は非常に大きいと思います。
もちろん、職場の雰囲気を左右する要素は労働条件だけではありません。人間関係のこじれなど、避けられない問題もあります。ただ、制度やルールの部分で防げるトラブルは、あらかじめ対策しておくことで確実に減らすことができます。採用というのは本当に大変な仕事で、時間も労力もかかりますし、場合によっては人材会社への費用も発生します。せっかく採用したスタッフが、少しの不満で辞めてしまうのは本当にもったいない。小規模の医療機関であれば、1人抜けるだけでも現場は大きく揺らぎますし、逆に1人良い人が入るだけで劇的に安定する。そういう意味でも、職場を整えることのコストパフォーマンスは非常に高いと感じます。
特に小規模の医療機関では、給与を大幅に上げるにも限界がありますし、福利厚生の充実度でも大手にはどうしても敵いません。けれども、「労働時間や有給休暇といった基本的なルールを守る」ということは、特別な投資を必要とせずにできる改善です。これは経営的にも非常に合理的な取り組みで、コストをかけずに“良い職場”としての評価を上げることができる数少ない方法だと思います。
また、医療業界で働くスタッフの多くは、これまでに複数の職場を経験しています。だからこそ、先生がルールをきちんと守って対応する姿勢を見せるだけで、「今までのどの職場よりもきちんとしている」「信頼できるところだ」と感じてもらえるのです。こうした印象は外向けの広告よりもはるかに強い効果を持ちます。
さらに言えば、こうしてルールを守る姿勢が定着していれば、スタッフが職場に不満を持つリスクも減ります。「少し時間を超えてしまったけれど、普段はきちんと対応してくれているから今回は協力しよう」と思ってもらえる。つまり、相互信頼がベースになった柔軟な助け合いが生まれるわけです。実際、私の経験でも、普段から労働時間や有給の扱いを誠実にしておくと、本当に困ったときに「先生、今日は残りますね」と自然に協力してくれるスタッフもいらっしゃいました。
最近では、退職時にトラブルになったり、内部告発のような形で職場を去るケースも見られますが、こうした関係性を築けていれば、そのような“後味の悪い退職”はまず起こりません。もちろん、日頃の言葉遣いや態度も大切ですが、まずは制度面できちんと信頼を得ておくこと。そこから生まれる安心感が、職場全体の空気を落ち着かせてくれるのだと思います。
私が実際に行っている取り組み
私が実際に行っている取り組みとしては、労働時間が「12時まで」となっている場合、基本的には12時前に上がってもらうようにしています。12時を過ぎることがないように、5分から10分ほど早めに締めて片付けを終え、勤務を終了するようにするのが通常の流れです。つまり、「時間が延びて残業になる」ということが、そもそも発生しないように設計しています。
というのも、私のほうの事情としても、労働時間が伸びると残業代を支払う必要が出てきます。もちろん必要なケースではきちんとお支払いしますが、実務上、残業の計算と管理はやや手間がかかります。私は給与計算をすべて自分で行っているため、入力項目や時間の記録が増えるとそれだけで作業が煩雑になるんですね。簡略化のために、できるだけ事務作業はシンプルにしたいというのが正直なところです。
そのため、多少早めに上がってもらう分にはまったく構わないと考えています。職場によっては「12時まで勤務」となっていても、10分前には片付けを始め、12時ちょうどに「はい、終わり」とするところも多いと思いますが、私はそうした形式にあまりこだわりません。業務が終わった時点で帰ってもらって大丈夫です、というスタンスです。これは職員が一人だけだからこそ柔軟にできている部分もあると思います。もし複数のスタッフがいる場合には、ルールを統一しないと混乱を招く可能性があるため、そこは注意が必要だと思います。
さらに言えば、最後の方の予約枠に患者さんが入っていない場合などは、11時半くらいに上がってもらうこともあります。つまり、30分早く帰れる“ちょっと得した日”があるわけです。当然、時給は同じ金額を支払いますし、勤務時間が短くなったからといって差し引くようなことはしません。予約が少ない日には「今日はここまでで大丈夫ですよ」と伝えて早めに切り上げてもらう。これは職員にとっては嬉しいのではないかと思います。来ない日は来ないので、無意味に待機してもらっていても仕方ないので、それなら帰って早く休んでもらったり、他の予定に行ってもらったほうがいいかなと思っています。
一方で、普段からそうして早く上がってもらうことが多いので、本当に忙しい時――たとえばインフルエンザの流行期など――には、「今日は少し時間を超えて残りますね」と自発的に協力してくれることがあります。これは非常にありがたいことで、やはり普段の積み重ねが信頼につながっているのだと思います。こちらとしても普段から感謝を伝えるようにしていますが、いざという時に助けてもらえる関係というのは、やはりこうした日常の“働きやすさ”の中から生まれるものなのかなと思います。
現実的な対応とバランス感覚
規模の大きいクリニックでは、常勤スタッフには有給を付与していても、パートやアルバイトにまで厳格に適用しているケースは少ないと思います。確かに、全員に完全付与を徹底すれば、経済的な負担は無視できません。特に小規模なクリニックでは、急にすべてを法律通りに整備するのは現実的に難しいでしょう。ですから、できるところから、無理のない範囲で整えていくのが良いと思います。
ただ一方で、有給休暇は就業規則に明記されていなくても、法律上はアルバイトやパートにも確実に付与される権利です。つまり、スタッフから「有給を取りたい」と申し出があれば、原則として拒否することはできません。もし拒否してしまえば、労働基準監督署に相談されてしまうリスクがあります。最近ではネットで簡単に情報が得られ、AIを使えば法的根拠まで調べられる時代です。知らなかった、では通用しない。そういう時代になっています。
いま経営している先生はどうするか?
すでに開業してある程度年数が経過し、スタッフさんを抱えている先生がいまどうするかというのは、非常に難しい問題です。いまこの時点から、急に上記のように、すべてを厳密にやると経営的には負担が大きくなります。スタッフさんが保有する有給休暇の価値は、お金に換算すると実はかなり大きな額になり、経営規模によっては数百万円単位になることも想定されます。これらはスタッフさん側には資産ですが、クリニック経営者である先生にとっては負債です。この権利を一気に行使されれば、経営にかなりの影響を受けることが予想されます。
ですから現実的には、少なくとも今後の採用の段階からは、労働時間や有給取得を見越して、これらのコストもあらかじめ織り込んでおく必要があります。労働時間は多少余裕を持って採用し、有給休暇も全て使うという前提に立てば、スタッフ雇用についてこちらも今まで以上に慎重になる必要があります。
今の職員をどうするかという問題が、実務上、本当に難しい問題ですが、少なくとも有給休暇を拒否するようなことは法律上もできません。こちらはやや大きい問題なので、別記事でまた考えたいと思います。(参考記事→スタッフに有給休暇を十分に与えてこなかった場合、どうすればよいか)
まとめ
労働時間と有給の管理は、法令遵守という意味だけでなく、信頼関係の基盤をつくる要素でもあります。結果として離職やトラブルを減らし、その結果、採用コストを下げることにもつながる。医療機関のような人手に依存する現場では、実はそれは有効な“経営対策”なのかもしれません。
