開業前に勉強しておきたいことは、正直に申し上げて無限にあります。すべての準備を完璧に整えてから開業する――これは現実的にはほぼ不可能だと私は思います。ですので、ある程度の基礎を押さえたら「手持ちの武器」で戦いながら、走りつつ学ぶことになるはずです。
そのうえで、私が実際に診療所を開くにあたって「やっておいてよかった」「むしろもっとやっておけばよかった」と強く感じた領域を、経験に即してご紹介してみます。これから検討される先生の参考になれば幸いです。

簿記3級

多くの先生は税理士の先生に依頼されると思います。自力で会計業務を行う先生はもちろん、税理士にお願いする先生でも簿記の最低限の知識はあったほうが良いです。具体的には簿記3級レベルの知識が目安になると思います。

私は最初は自力で回し、後に法人申告などが大変になって税理士さんにお願いしましたが、今はまた自力運用に戻しています。簿記3級のベースがあると「致命的にわからない」という事態はだいぶ減ります。日々の仕訳など診療所の実務は十分こなせますし、決算は面倒ではあるものの、措置法第26条の範囲であれば自力でも不可能ではありません。

税理士に依頼する場合でも、簿記知識があるとコミュニケーションの質が上がります。3級なら1か月集中で十分届く水準です。開業してから勉強しよう、だと時間が意外に取れません。「独立しよう」と決めた時点で着手するのがおすすめです。医療の頭の使い方と簿記の思考は少し違うので、最初の1週間は取っつきにくいかもしれませんが、難物ではありません。


教材は書店の定番本でも良いですし、YouTubeの高品質な無料講座も充実しています。私は本を何冊か買い、YouTubeはふくしままさゆき先生の教材で学び、3級を取得しました。

措置法第26条(租税特別措置法第26条)

小規模・ミニマム開業を志向する先生は、ここを深く理解しておくと戦略が大きく変わります。ご存じの方が多い条文ですが、**「どこまで意識して日々の意思決定に落とすか」**で結果が変わります。

措置法第26条の枠に収まりそうな先生は、むやみに経費や売上を膨らませるより、コストを抑えつつ手取りを最大化する設計が有効になります。保険診療の診療報酬が5,000万円を超えると使えなくなるため、初めからその規模を大きく超える予定の先生は別ですが、**「措置法第26条の範囲でやる」**という戦略は小規模クリニックでは現実的です。戦略次第では、トータルで手取りが年数百万円レベルで違うこともあります。

診療報酬に関する本を読む

診療報酬に詳しい勤務医の先生は、多くないと思います。私も勤務医の時代はほとんど意識せずにやっていて、医局会などで、「保険で切られた」という話を聞いても、あまり気にしていませんでした。ただ、独立して自分が“開設者”になると、それが利益に直結してしまうので、途端に強く意識するようになります。

診療報酬に関する本は、電話帳みたいに分厚い本(いわゆる青本)もあれば、コンパクトな薄い本もあります。すべてを把握するのは現実的ではないので、まずは最小限の基礎知識を入れてから、あとは実地で学ぶのが良いと感じています。

最初は薄い本を2-3冊ほど読めば、大枠はつかめると思います。診療所の外来で使う項目は限られていますし、入院に比べれば制度面もそこまで複雑ではありません。外来に限れば、その診療科で使うところをきちんと押さえるだけでも違います。もちろん、最初は返戻を受けたり、取り忘れも散々あると思いますが、そこは授業料だと考えて、その都度学んでいけば良いのかなと思います。

また正確に把握したいきは、厚生労働省が発布している原本にあたることをおすすめします。(参考記事→「医科診療報酬点数表」、「医科診療報酬点数表に関する事項」について

一方、在宅はルールが複雑怪奇なので、在宅をメインでやる先生は、在宅レセプトを支援する会社や**レセプトのチェックソフト(例:レセスタ等)**をしっかり使ったほうがいいかもしれません。

保険医協会でも、レセプトに関してわからないことを聞けば丁寧に教えてくれます。また本だけではわからない、ルールの運用の実際のところも教えてもらえます。ですので、可能なら保険医協会に入会して、最初期は積極的に活用するのが良いと思います。

また、「最初からできるだけ返戻を避けたい」「見落としを減らしたい」という先生は、レセプトチェックソフトを期間を決めて(例:最初の1年)使って“学習する”のも有効です。私も最初は使っていましたが、慣れてくると指摘が減るのと、診療所でやる内容はやがてワンパターン化してくるので、基礎を押さえて実務を回していけば、だんだん自分でつかめるようになります。

私のようにレセプトを全部自分でやる先生は、開業前にある程度回せるレベルで学ぶのが必須です。ただ、レセプトは事務さんや外部の先生が担当する体制でも――医師本人が構造を知っておくと、結果が大きく変わります。
たとえば、

  • 病名の付け方ひとつで返戻リスクが減る
  • 症状詳記等の書き方も重要
  • 初診・再診の判定を自分で適切に判断できる
  • 一般名処方加算が取れるかどうかで、剤形の確認投与日数の調整など細部の設計が変わる

……といった細かなところまで、影響が及びます。簿記と同じで、こちらもご自身で把握しているかどうかが本当に強いです。

人を雇うなら労務関係

人を雇う場合は、社労士さんに関連する業務をある程度把握しておく必要があります。最初からある程度のスタッフを複数人入れて立ち上げる先生であれば、社労士さんにお願いしてしまうのが自然でしょう。その場合は最低限の知識だけ押さえて、あとはお任せするというスタンスで大丈夫だと思います。むしろ大事なのは「どの社労士さんにお願いするか」という点で、そこはじっくり検討したほうがいいと思います。

一方で、私のようにミニマム開業をしている先生は、自分で労務関連を処理しなければならない可能性が高いです。完全なワンオペレーションでスタッフがいない場合や、家族経営で給与は渡さず手伝ってもらうのであれば必要はありません。ただし、たとえ午前中だけのアルバイトさんを1人お願いするにしても、労務関係の基本的な知識は必須になります。

具体的には、例えばスタッフ1〜2人を非常勤で雇う場合でも学ぶべきことはいろいろあります。

  • 労災保険:たとえ週1時間のアルバイトでも全ての労働者には加入が必要です。
  • 雇用保険:週の労働時間が一定以上であれば加入義務があります。
  • 社会保険:週の労働時間や給与によって加入が必要になる場合があります。

これらは状況によって基準が変わってきますので、必ず押さえておく必要があります。

さらに、今は最低賃金の引き上げも続いており、特にアルバイトさんを雇う場合は注意が必要です。看護師などの専門職は賃金がもともと高めですが、クリニック規模でアルバイトの事務さん雇う場合は、最低賃金ギリギリのケースもあります。制度改正があると、給与を見直さなければならない場合も出てきますので、この点も常に意識しておく必要があると感じています。

有給休暇

有給休暇の付与は、労働基準法で義務とされています。つまり、週1回だけ勤務するアルバイトさんであっても条件を満たせば有給休暇が発生し、付与する必要があります。さらに、年間で一定日数を取得させないと罰則が科されることもあり得ますので、この点はしっかり把握しておくことが大切です。

経営者になると正直なところ「できれば取ってほしくない」と思ってしまうのが本音ではないでしょうか。休んでいる間も給与を支払わなければならないわけですから、微妙な気持ちになる先生は多いと思います。ですが、これは労働者の権利として法律で明確に定められたものです。希望を伝えられても付与しないのは完全に違法行為になりますし、労働基準監督署に通報されれば調査が入り、結果的に経営者に不利な状況になる可能性が高いです。

実際には、有給休暇をきちんと取れているアルバイトやパートの方は決して多くありません。そもそも有給が発生すること自体を知らない人もいますし、知っていても「言い出しにくい空気」があって権利を主張できないまま働いている人も少なくないのが現状です。

だからこそ、経営側がしっかり付与する方針を示すことが差別化にもつながると私は思っています。例えば「うちでは法律通り有給を100%付与します」と初めから明言しておくと、労働者は安心して働けますし、余計な不信感を抱かずに済みます。結果的に職員の定着率が上がり、採用面でも有利になる可能性が高いです。

今は日本全体が人手不足で、医療機関も例外ではありません。募集してもすぐ人が集まるわけではなく、特に看護師さんや医療事務さんは取り合いの状態です。給与を上げても限界がありますし、それだけで良い人が来てくれるとも限りません。逆に、法律を守って労働環境を整えていることを示すだけで、他の職場との差別化になるのです。

勤務医時代、有給がほとんど取れなかった経験をお持ちの先生も多いと思います。だからこそ「自分は取れなかったのに人に取らせるのか」と複雑な気持ちになることもあると思います。しかし、有給休暇をきちんと付与することは、職場の信頼感を高め、結果的に先生ご自身にも有利に働くことになるのではないでしょうか。

いわゆる無期転換ルール

これも注意が必要なポイントです。無期転換ルールというものがあって、常勤の場合はあまり関係ないのですが、非常勤で半年や1年ごとに契約を更新して働いてくれる事務さんや看護師さんの場合に関わってきます。

通常は契約更新するかどうかはお互いの話し合いで決められますし、人が充足したから「今回は更新なしでお願いします」と伝えることも比較的容易です。ただ、ひとつ落とし穴があって、それが無期転換ルールです。

これはどういうものかというと、同じ人を通算5年以上有期契約で雇用し続けた場合、労働者の側から「無期契約にしてください」と申し出られると、経営者はこれを拒否できず、しかもそれまでと同じ労働条件を維持したまま無期雇用に切り替えなければならない、という法律です。

実際にはこのルールを知っている人は少なく、また「5年働いたので無期にしてください」と申し出てくる人も多くはないと思います。ですが、もし申し出があれば拒否できません。無期に転換されると常勤と同じく、多少経営が厳しくなったからといって簡単に解雇することはできなくなります。例えば逮捕された、重大な問題を起こしたなどのケースを除き、経営上の都合では解雇できない。つまり事実上、自分から辞めてもらうしか方法がなくなってしまいます。

勤務医として雇われている間は気づかなかったのですが、日本では労働者の権利は経営者よりも強く、法律でかなり保護されています。もちろん実際にはすべてのルールが正しく運用されているわけではありませんが、知識を持っている労働者が権利を主張すれば、経営者にとってかなり厳しい状況になるのが現実です。そして今は情報が容易に得られる時代です。正しい知識を持っている前提で動く方が安全です。

だからこそ、多くの企業は常勤採用を避けて、非常勤やアルバイト、派遣にシフトしたがるのです。人件費は大きな経費であり、それを自由にコントロールできないのは経営者にとって大きなリスクだからです。常勤は権利が本当に強いです。非常勤はそれに比べればまだ柔軟に対応できますが、それでも有給休暇や無期転換ルールといった法律で守られている部分はあります。人を雇う以上は、こうした制度をきちんと把握しておかなければなりません。

私自身もそうでしたが、家族経営で始めて、アルバイトさんを1人雇い始める、というような場合でも、雇用関係のルールに関する、最小限の知識は必要になります。採用時にハローワークを通す場合は、そこで相談するのも有効です。例えば「一度本採用すると契約終了までは、やめてもらうことが難しいことがある」とか「この場合はどの保険に入る必要があるか」といった注意点も、ハローワーク職員さんに尋ねればしっかり教えてくれます。行政の制度なので相談は無料ですし、思っている以上に親切に対応してくれます。こういう窓口も、うまく活用していくのが良いのではないかと思います。

パソコンのスキル

パソコン関連のスキルは、今やもう完全に無関係ではいられないと思います。昔は紙カルテで請求も紙、というケースもありましたが、今では新規開業で紙カルテを使うことは少なく、電子カルテを導入することが多いです。少なくともレセプト請求は電子が基本になっていますです。

そのため、パソコンが全くダメだと正直かなり厳しいです。もちろん、ものすごく詳しくなる必要はありません。例えば「パソコンが固まったら電源ボタンを長押しして再起動する」「プリンターが止まったら直す」といったレベルの基本的なトラブル対応はできる必要があります。

大きなクリニックで事務長さんが常にいて管理してくれるなら問題ありませんが、新規開業で自分がある程度管理する立場になると、パソコンが苦手だと結構つらいです。他のことはこれまでの経験で何とかなる部分が多いですが、意外と盲点なのがパソコンや周辺機器の管理です。

これはもう触って覚えていくしかないと思います。例えば「自分でデスクトップパソコンを買って組み立ててみる」「ケーブルをつないでネット接続までやってみる」「ルーターの設定を自分でやってみる」といったことを経験しておくと安心です。これができないと、ちょっとしたことでも業者さんに頼らざるを得なくなり、余計なお金を取られてしまうリスクがあります。特にインターネット回線は知識がないと業者の言いなりになり、毎月何万円もかかる無駄な契約をしてしまうケースもあります。(※たいてい不要なセキュリティ対策や、ボッタクリのルーターレンタル代等がてんこ盛りになっています。)

実際には光回線でも安いものを選べば月3,850円程度で済みます。オンライン請求やオンライン資格確認も、コラボ回線で問題ありません。また最近は10ギガ回線も出ていますが、普通の診療所でカルテを使う分には1ギガで十分だと私は思います。

転職市場の調査(セーフティーネットとしても)

これは人によって必要性の感じ方は違うと思いますが、私は転職市場についても少しは見ておいたほうがいいと考えています。

例えば、私自身は「開業しながら事業をやりつつ、週1回は非常勤アルバイトに行く」というスタイルを初めから想定していたので、その調整を早めにしていました。実際に開業する前から非常勤先を確保して仕事を始めていました。

もし「自分のクリニック一本でやっていく」という先生であっても、転職市場は一度は見ておいた方がいいと思います。なぜかというと、最悪のケース──たとえば開業しても3か月たって固定費が回らない、1年たっても赤字で貯金を切り崩している、という場合には、外勤やアルバイトで補う必要が出てくるかもしれないからです。

もっと厳しい話をすれば、「これはもうクリニックをやっていくのは現実的に無理だ」となったとき、勤務医に戻ることを検討せざるを得ない場合もあります。そのときに「条件の良い常勤に戻れば、どのくらいの年数で借金を返せるか」といった見通しを持てるだけでも、心の持ちようが全然違います。

見ないで過ごす方がかえって不安になることもあります。直視すれば厳しい現実に思えるかもしれませんが、結局は「早く知るか遅く知るか」の違いです。現実は変わらないので、経営者としては情報を持っていた方がむしろ戦略を立てやすい。週1回バイトすれば返済が可能とか、5年頑張れば借金を返し切れるとか、見通しを立てることで少し安心感も得られます。

それに、転職市場も時代によって大きく変わります。ここ数年は物価や税金が上がっているのに、医師の給与はむしろ横ばいか、下がり気味です。保険診療は縮小傾向にあり、自由診療も競争が激しくなってきている。結果として、昔に比べると医師の実質的な収入はかなり減ってきていると感じます。生活費や社会保障負担が増えている分、手元に残るお金は10年前の医師に比べても大きく減っている。これはなかなか残酷な現実だと思います。

ですから、過去に見た相場感をそのまま信じると「えっ、今ってこんなに安いの?」と驚くこともあると思います。実際、健診アルバイトや寝当直アルバイトの単価が崩れてきています。今は医師にとっても厳しい時代だと感じます。だからこそ、あえて見たくない現実であっても、早めに転職市場をチェックして状況を把握しておくことが大事だと強く思います。

必要だと思うときが一番の学び時 ― 基礎があるかないかで効率が違う

独立前に「学んでおいた方がいいこと」というのは本当に無限にあります。全部を準備してからやろうと考えたら、おそらく一生独立できないと思います。それくらいやることは多いです。

だからこそ、完璧を目指すよりも「ある程度必要なところだけ先に学んでおき、あとは走りながら覚える」しかありません。すべてを事前に把握してからスタートしようとすると、時間はいくらあっても足りません。結局は、最低限の準備をしたら「えいや!」で始めてしまうしかない。

私自身の経験でも「やっておいてよかった」と思うこともあれば、「これはもっと早めにやっておけば楽だったな」と思うこともあります。特に簿記などは頭の使い方が医学とは全然違うので、余裕がない開業後に一から学ぼうとすると結構しんどいです。簿記や診療報酬の本を読んでおくことを、当直の合間など少しの時間でもやっておくと、その後の負担が全然違ってきます。

繰り返しになりますが、全部を完璧に仕上げる必要はありません。むしろ「ある程度の基礎を持って、あとは実地で学んでいく」のが一番効率的だと思います。必要に迫られたときに学ぶのが、一番モチベーションも高く、吸収力も違います。

診療報酬改定は2年ごとにあり、これは本当に大変ですが、基礎さえ押さえておけば後の学習負荷はそこまで大きくはありません。結局一番大変なのは「立ち上げの時期」です。学ぶことも多いし、実際の現場でどう適用するかをその都度判断しなければならない。想定外のことも開業初期にむしろ次々起こります。その意味で、最初の1年が一番しんどいと思います。

でも、基礎を押さえていれば「学びながら進む」ことができますし、必要なことは必ずその時に身につきます。ですから、独立前に完璧を求めるよりも、「基礎をつけておくこと」に重きを置くのが現実的で効果的だと、今になって感じています。