クリニックの開業についてですが、「逃げられなくなってしまうような独立の形態」というのは、やはりかなり辛いものだと思います。逃げられなくなる理由はいくつかありますが、ほとんどの場合はお金が絡んでいます。特にテナントを定期契約で借りるようなケースでは、20年契約などの長期契約を結ぶこともあり、モール型の開業などでは途中解約が事実上難しい場合もあります。多額の違約金を払わないと退去できない、あるいは契約期間中の家賃を全額支払わなければならない、というような内容であれば、状況が厳しくても撤退できず、継続を余儀なくされることになります。そうした形態の開業は、精神的にも経済的にも非常に重い負担になります。

私としては、開業に踏み切る場合、ある程度逃げ道を覚悟した上で行うほうが、精神的にもおすすめだと思います。今回は私の経験も交えて、こちらのテーマで考えていきます。

借金という重み

クリニックの運営に限らず、仕事全般において最も大きな問題はやはりお金です。お金があれば解決できる問題は多く、特に仕事上のトラブルの多くは資金に余裕があれば回避できることが多いと感じます。極端な話をすれば、十分な資産がある人は働かなくても生きていけますし、そうでないからこそ多くの医師が働き続けているのだと思います。

現実には、患者さんが思うように来ない、コストが想定より重い、スタッフへの給与が苦しくなるなど、経営上の悩みの多くはお金に起因します。そして、その問題があるがゆえに辞めたくても辞められず、引くに引けなくなる先生も少なくありません。特に、いわゆる「重装開業」と呼ばれる大規模開業をした場合、数億円単位の借金を抱えることもあり、その返済だけで一般的に少なくとも10年以上を要します。20年、30年単位の長期計画を余儀なくされるケースも珍しくありません。借金を完済する頃には70歳に近い、またはすぎる予定の先生もみえると思います。順調に経営が続けば問題ありませんが、医療経営は思いがけない出来事に左右されるものです。保険診療報酬の低下や社会情勢の変化、あるいは自身の体調の問題など、想定外の出来事で継続が難しくなることもあり得ます。

クリニックモールと定期借家契約の落とし穴

私も最近知ったのですが、「定期借家契約」という形態があります。これは、例えばショッピングセンターや医療モールのテナントなどで、20年間の定期契約を結び、その期間を過ぎたら更新を相談するというものです。一見すると安定した契約のように思えますが、もし5年ほど経って採算が合わないとわかっても、契約の内容によっては撤退できません。半年分の家賃を払えば解約できるなどの条件であればまだいいのですが、契約期間中の家賃をすべて支払わないと退去できない等、先生にとって非常に不利な条件となっている場合もあります。こうした契約を安易に結んでしまうと、経営が苦しくなっても抜け出せず、精神的にも追い詰められる状況になりかねません。

医療モールは集客面では確かに有利ですが、家賃が高額になりやすく、契約のリスクを見落とすと非常に危険です。特に近年は薬局も経営が厳しく、撤退などの想定外の環境変化に巻き込まれることもあります。

先が読めない世界になってきた

先が読めないというのは、ある意味では生きる上で当然のことかもしれません。世の中とは本来そういうものだと思います。けれども、ここ数年の変化はその「想定の範囲」を明らかに超えていると感じます。

特にテクノロジーの進化の速さは、もはや人間の感覚では追いつけないレベルに達しています。なかでも生成AIの発展は象徴的で、これは本当に「産業革命に次ぐ革命」と言われるにふさわしい出来事だと思います。社会の仕組みそのものが、根底から組み替えられようとしている。もはや一つの技術が成熟する前に、次の波が押し寄せるような状態で、流れに身を任せているだけでも精一杯という実感があります。

こうした技術革新の波に合わせるように、社会制度や経済構造の変化もますます速くなっています。良い方向への変化ばかりであればいいのですが、医療業界に関して言えば、むしろ厳しさを増している側面が多いように思います。特に開業医は世間の風当たりも強く、制度改定や報酬体系の見直しがダイレクトに経営を揺さぶるため、その影響は大きいものです。

かつて「時代の流れが速くなった」と言われていた頃が懐かしく思えるほど、いまは本当に目に見えて速くなっています。スマートフォンが登場してから、私たちの生活も仕事のあり方も根本的に変わりました。今では当院のように、スマートフォンなしには診療が成り立たないクリニックも多いです。電子カルテ、予約システム、問診フォーム、キャッシュレス会計、AI支援の診療サポートなど、わずか数年のうちに医療の仕組みそのものが塗り替えられてきました。十年前と今とでは、社会の姿がまるで違う。そう考えると、十年後の世界を想像することなど到底できません。

そのような世界で、10年、20年のスパンで返済を前提とする借入計画を立てて独立するというのは、やはりリスクが高い選択です。あまりに不確定要素が多すぎる。高額な投資を伴うクリニック開業は、もはや一昔前の感覚では通用しない時代に入っていると思います。少なくとも、10年や20年前に開業した先生方が背負ったリスクとは、質も大きさもまったく異なる。私自身、この変化の速度を目の当たりにしながら、改めて「時代とともに変わらなければ生き残れない」という現実を痛感しています。

ミニマム開業の幻想

では、「重装開業は危険だからミニマム開業にすれば良いのか」と言われると、私はそうも思いません。確かにITの発達によって少額で開業できる環境は整いつつありますが、ミニマム開業にも明確なメリットがあるとは思えません。そもそも、今の時代に「開業医になること」自体の優位性は、以前ほど高くないと感じます。勤務医にももちろん厳しさはありますが、リスクの質が違います。勤務医の最悪の事態は収入が一時的にゼロになることですが、開業医の場合は返済不能な負債を抱える可能性があります。つまり、失敗の規模が根本的に異なるということです。

変化に柔軟な人が強い

少し話がズレますが、私がこれまで見てきた中で「うまいな」と感じる先生は、変化を恐れず柔軟に動ける方です。コロナ禍では発熱外来やワクチン接種に注力し、需要のあるところでしっかり収益を上げる。状況が変われば、すぐに撤退して次に移る。そうした俊敏さを持つ方は、医師であると同時に経営者としても優れています。今ならオンライン診療や美容・ダイエットなどの自由診療分野など、伸びしろのある分野に早くから取り組んで成功している方も多いです。規制が入る前に動く、潮目が変わればすぐ切り替える。こうした機動力のある先生は本当に強いと思います。正直、誰もが真似できるものではありませんが、方向転換できる柔軟さは今後開業医にも求められていくと感じます。

撤退の選択肢を持つということ

今回のテーマに関して言えば、経営が思うようにいかない、あるいは今後も厳しいと感じる場合に、撤退という選択肢を持てない状況は非常に苦しいと思います。借金やテナント契約の縛り等で身動きが取れないと、冷静な判断すら難しくなります。独立を考える際には、「うまくいかなかったときにどう撤退するか」というプランを必ず設けておくべきです。逃げ道を作っておくというのは、経営の弱気ではなく、むしろ健全なリスクマネジメントです。完全に逃げられない形で独立してしまうと、精神的な消耗が非常に大きくなります。

自分はどうだったか

正直なところ、私自身そこまでしっかりと撤退のシナリオを描けていたわけではありません。偉そうなことを言っていますが、当時の私はただ「最悪うまくいかなくても何とかなるだろう」と思っていた程度です。ただし、自己破産をするような規模の借金だけは絶対に避けると決めていました。最悪撤退することになっても、勤務医として働けば返せる金額の範囲にとどめる。その一点だけは明確に意識していました。今思えば、それが唯一のリスクコントロールだったと思います。

経営の感覚がようやく掴めてきた

独立して数年経った今では、ようやく商売の勘どころが掴めてきました。患者数や収益の推移から、どの水準までなら耐えられるか、どの段階で撤退を考えるべきか、ある程度見えるようになってきました。

同時にクリニック運営に本当に必要なものというのも見えてきました。開業初期はやはりムダなサービスや、知識不足で外注せざるを得ないものもありました。しかしその後、自分でできる範囲の仕事は極力自分でこなし、無駄なコストを削ってきました。その結果として、経営が破綻する可能性は以前よりはかなり低くなったと思います。結局、現場を動かしながら、走りながら学ぶしかないこともあると思います。

開業と非常勤、両方を経験して見えたこと

私はもともと転職の経験があり、開業に伴い非常勤の形態も経験することで、その過程で「医師としての働き方の幅」をずいぶん勉強しました。開業してからも、その知識がとても役立っています。実際、今の私のようなミニマム開業形態であれば、純粋に収益面だけを考えると、非常勤勤務に振り切ったほうが経済的には有利だと思います。もちろん、家族との時間や自由度など、金銭では測れない要素もありますので、どちらが良いかは難しいところです。けれども少なくとも「お金の安定」という意味では、非常勤のほうが余裕を持ちやすい。開業には、開業ならではのストレスや、夜中にふと考え込んでしまうような不安が常について回ります。

それでも、逃げ道があることの安心感

それでも私が今のスタイルを続けられているのは、「いざとなればやめられる」という逃げ道を確保しているからだと思います。借金はありますが、勤務医として働けば返せる範囲で、契約上も撤退の自由があります。だからこそ、心のどこかに「最悪の場合でも詰みではない」という余白がある。その一点が、精神的な安定を支えています。もしこれが巨額の借金だったり、定期契約で抜けられないような形態だったら、おそらく今ほど冷静でいられなかったでしょう。自分が「逃げられる状態」にあるということは、何よりも大きな救いだと感じます。

自由になりたいから、開業医になるのでは?

そもそもですが、先生が開業医になる理由の一つは、「自由になりたいから」ではないでしょうか?独立開業の理由は先生それぞれだとは思いますが、「自由になりたい、自由にご自身が好きなようにやりたい、自由に生きていきたい」という思いは、多かれ少なかれお持ちだと思います。

しかし自由になるために開業医になったのに、お金や不本意な契約に縛り付けられるのであれば、なんのためにリスクを背負って開業したのかわかりません。これは意外にも頭が良い人でも陥りやすい落とし穴です。いつの間にか開業することが目的となってしまい、当初の目的や目標を見失った結果、ただ借金を返すだけに働くだけの人生になってしまう、、、。これは本当に避けたい事態です。その結果、得をするのは先生の開業に伴い集まってきた人たちですから。。先生はその周りの人達を儲けさせるために一生働き続けることになってしまう、、ということにもなりかねません。

選択肢を持っているほうが、気持ちは楽になる

やはり、どんな形であれ選択肢を持っていることが大切だと思います。全てを背水の陣で戦う覚悟も尊いですが、実際には人間、余白があったほうが冷静に判断できると思います。いざとなれば勤務医に戻ればいい、という状況と、何があっても退けない状況とでは、日々の心理的負担がまったく違います。追い詰められた方が力を発揮できるタイプの人もいるかもしれませんが、多くの場合、心の余裕があるほうが長く安定して続けられるのではないでしょうか。少なくとも私自身は、選択肢を確保していることが、自分を支えていると感じています。